回天刊行会発行『回天』(代表編集者・鳥巣建之助)より、原爆運搬艦・インディアナポリス撃沈に関する鳥巣氏による記述要約

鳥巣建之助 元海軍中佐、第六艦隊水雷参謀、回天戦作戦参謀 氏による回天泊地攻撃から洋上攻撃への作戦変更が伊58潜によるインディアナポリス撃沈につながった。


米重巡洋艦インディアナポリス

第五艦隊司令長官スプルアンス提督の旗艦として、ギルバート攻撃戦、マーシャル群島攻略戦の陣頭に立つ。

トラック島空襲、パラオ空襲、マリアナ攻略、硫黄島攻略、沖縄作戦に臨む。

1945.3.30 沖縄沖で神風特攻の体当たり攻撃を受け、9名の兵員が戦死。艦体に二つの大きな穴をあける。

→燃料タンク、推進軸、蒸留器などを損傷するも、応急修理のあと、4月末、自力でサンフランシスコ湾に帰る。

メーア・アイランド工廠で損傷箇所を修復、6月末に完工。

*(この頃、マンハッタン計画=日本への原爆投下計画=の原爆心臓部であるウラニウム235をB−29戦闘爆撃機の前線基地・テニアン島に運搬する艦を、インディアナポリスに決定。)

1945.7.15朝 艦長マックベイ大佐が特殊任務の説明を受ける。「サンフランシスコのハンタース・ポイント海軍基地で、形は小さいが重要な機密の品物を一つ艦に積むこと。そして高速でパール・ハーバーへ行き便乗者を降ろし、高速でテニアン島に向かってそこで品物を陸揚げすること。品物の中身はいえないが、たとえ艦が沈むようなことがあってもこの貨物は救助艇に乗せるかして、沈めないようにすること。貨物を一日でも早く運べば、それだけ戦争が早くすむことになる」と伝えられる。

1945.7.16 4:00、貨物を搭載。
 同日5:30、ニューメキシコ州アラマゴードで人類初の原爆実験。
 同日8:00、2個の原爆搭載を完了したインディアナポリスが出港。

 同日午前、回天多門隊・伊58潜が呉軍港を出港、午後平生基地に入泊、回天6基を搭載。
 翌17日朝、出陣式。搭乗員伴修二中尉、水井淑夫少尉、林義明一飛曹、小森一之一飛曹、中井昭一飛曹、白木一郎一飛曹が乗艦。パラオ−グアム−レイテの交又点付近に向け出撃。

1945.7.26 インディアナポリスはテニアン島に到着。貨物(ウラニウム235)を陸揚げ。その後「グアムに寄港の上、レイテに行って訓練を受けよ。訓練を終れば、第95機動部隊指揮官、ジュース・B・オルデンドルフ中将の指揮下に入れ」という簡単な命令を受ける。

 同日夜テニアン島出港。

 翌日早朝、グアム島アプラ港に入港。マックベイ艦長、スプルアンス大将や幕僚たちと昼食、打ち合わせ。ここで護衛駆逐艦の同行が話に出たが問題にされず、単艦でレイテに向かう。(戦いはとうに北方に移っており、敵がこんな海面に出没するとは全く考えなかった)。対潜兵器であるソナーも持たなかった。速力は制限速力16ノットを下回る15.7ノットで航海し、戦闘航海中は閉鎖するのが立前となっている艦内防水扉も、暑いせいもあって全部開け放しだった。

1945.7.28 伊58潜、駆逐艦を護衛につけたタンカーを潜望鏡で発見。回天戦開始。伴修二中尉、小森一之一飛曹が発進・戦死。

1945.7.29夕 インディアナポリスのマックベイ艦長は、日が暮れると「(魚雷回避のための)ジグザグ航行の中止」を命じ、レイテに向け直進航行となる。視界は開け、波はなかった。

 同日夜 伊58潜浮上。艦橋で航海長が距離10,000m先にインディアナポリスを発見。急速潜行。橋本艦長「魚雷戦用意、回天戦用意」と号令。

インディアナポリスは魚雷命中に最も適した角度で伊58潜に向け直進で近づいてくる。

距離2,000mになったとき、橋本艦長は魚雷発射を発令。2秒間隔で続けて魚雷を6本発射。

およそ一分後、3本の魚雷がインディアナポリスに命中。この間、回天内で待機していた白木、中井の両一飛曹は「なぜ出してくれんのですか、敵が沈まないならば仕止めに出してください」と再三電話で催促した。

伊58潜は次発装填のため深々度に潜航、再び浮上したときには敵艦の姿はなく、「アイダホ型戦艦に対し魚雷3本命中、撃沈確実」と第六艦隊司令長官宛に戦闘速報を発信。

まったくの無防備であったインディアナポリスは、3本の魚雷命中で通信装置はすべて故障し、SOSが発信不能となる。電源もことごとく壊れ、消火装置も、レーダーも、射撃指揮装置もすべて故障。また防水扉が開放されていたため浸水はあっという間に艦内全部に広がり、攻撃を受けて14分足らずであっけなく沈没。

1,200名の乗員中約400名が艦と運命を共にした。残りの800名は海上に放り出される。

インディアナポリスは7月31日にはレイテに到着する予定であったが、マンハッタン計画は極秘任務であったため、レイテでは誰もこれに気がつかなかった。

更に伊58潜が発信した戦闘速報は、当然アメリカ艦隊無線班に傍受され、約17時間後に太平洋艦隊司令部に届けられたが、配布先が限定されており、マンハッタン計画の関係者には通知されなかった。

故、この情報は真面目に検討されることなく漂流した乗組員は放置されたままとなり、沈没より84時間後、たまたま双発爆撃機ベンチュラに発見されるまで、完全にアメリカ海軍から忘れ去られていた。

こうして約500名の乗員が太陽と油と鱶と飢餓の中で命を落とし、インディアナポリスの撃沈はアメリカ海軍史上最悪の戦死者を出す、悪夢の惨事となった。

1945.8.6朝 広島に原爆投下。

1945.8.9朝 長崎に原爆投下。

1945.8.10 伊58潜、輸送船団を発見。水井淑夫少尉、中井昭一一飛曹、発進・戦死。

1945.8.12 伊58潜、水上機空母と駆逐艦を発見。林義明一飛曹、発進・戦死。

1945.8.15 天皇のご聖断が下り。日本は降伏。

敗戦国となった日本は、GHQの占領政策の下、原爆投下後の広島、長崎の惨状を調査することは一切許されなかった。

またインディアナポリス撃沈の事実も、一切日本のマスコミで報じられることはなかった。

2017.8 トランプ政権となり、フィリピン沖海底でインディアナポリス発見と世界に向け発信される。