自己紹介

生年月日:1964年6月12日 辰年生
血液型:O型
サヴァン症候群気質(普通音痴。普通の人が普通に出来ることが出来ず、普通の人が出来ないことが出来る。そういう人生を歩んで参りました。)
 
(現在なにわ会及び一部生き残り関係者との関係はありません。)
未婚

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加藤康人と申します。太平洋戦争でその末期に回天、人間魚雷の方ですが、私の母方祖母の弟、大叔父にあたる者が第一回天隊隊長として出撃、戦死しております。名前を河合不死男(ふじお)といいます。「不死鳥」は皆様よくご存知かと思いますが、同じように「死なない男」と書きます。*1)

この回天という特攻部隊は、若手海軍士官達(当時の陸軍士官、海軍士官は帝国大学出身者と並ぶリートでした)が中心となって立ち上げた部隊で、最終的には1000人くらいの特攻隊員が集まりましたが、その最初期に軍機密の極秘裏のうちに集まった(おそらく創始者黒木大尉、仁科中尉から声をかけられたと思われます)士官隊員約10人の中の1人が河合不死男でした。

大正11年1月1日生まれで非常に縁起の良い男でもあり、第一回天隊隊長として沖縄に向け出撃し、途中潜水艦の攻撃を受けて輸送艦の乗組員とともに全員戦死しました。


第一回人間魚雷特別編成隊決定時の記念写真(遺品のアルバムより)
中央左仁科中尉(創始者)、右河合中尉(次席)


第一回天隊隊長河合不死男海軍大尉 辞世の句

   散る花の 二度とは咲かじ若桜
       散りてめずらん 九重の庭

                    註釈:九重(ここのえ) 宮中、皇居

*1)死なない男が特攻隊長として、天皇陛下、日本の為に命を捧げました。国家滅亡の危機にあたり、護国、日本再建の礎として永遠に生きる覚悟をしたのだろうと思います。⇒ 叔父宛遺書

この回天特攻隊は、若手士官の熱意で軍上層部を動かし編成組織された経緯もあり、一つの大きな特徴として、指揮官先頭の日本海軍の伝統にのっとり、最初期に集まった士官搭乗員、そして成績の優秀な者から順番に出撃していきました。

それで、日本は敗戦国となりましたので、戦後、GHQによる占領下では原爆投下都市・広島、長崎の惨状など日本が調査することは一切許されず、被爆の実態はアメリカに完全に封印されれる形となりましたが、同時に、実はこの回天特攻隊で編成された潜水艦の伊58潜が、二つの原爆を運んだアメリカの重巡洋艦インディアナポリスを、その帰路撃沈させております(これが日本海軍最大の功績となる)。そして原爆投下後の実態と共に、この事実もアメリカに固く封印され、今日まで一切メディアを通して日本国民に知らされることなく70年の年月が流れました。

しかし、トランプ政権に変わった2017年の夏、アメリカはフィリピン海海底でインディアナポリスを発見したと発表しました。(同時に戦後アメリカにより爆破された伊58潜も五島列島沖で発見と日本側が発表)。これは原爆運搬艦撃沈の封印をといて、新しい世界秩序構築にアメリカが舵を切ったとも理解できるもので、日本は新たな価値観で、自ら歩んだ歴史の立ち位置から世界にも貢献する豊かな社会が創出出来る立場になったと考えます。

自分としては、これを未来に向けた大きな時代の転換期と捉え、より深い、人間の明も暗も見据えた立ち位置から、これからの時代に通用し得る新たな価値観、仕事の創出をしていきたいと考えております。

河合不死男と私に関連するエピソードとしましては、母が自分を身ごもって4ヶ月目に、NHKで『魚住少尉命中』という回天のドキュメントドラマが放映されました。そしてこのドラマの脚本を執筆した脚本家の横光晃という方が、(実は自分は若い頃、人生に苦しみ希望を見出せず只々脚本家になりたくてコンクールに応募を繰返しており、一度NHKのコンクールで受賞しました)、その時最終審査で最後まで熱心に応援して下さった審査員であった、という不思議な巡り会わせがあります。(『魚住少尉命中』の中にあるのと同様のエピソードが、私の受賞作の中にありました。それは物心ついた時から私の心の中に漠然と浮かんでいたイメージでした。)

このドラマは、2001年に再放映されたのを偶然見て、最後のテロップでこの事実を知って非常に驚いたのですが、自分には、こういった目に見えない力に導かれて、ある物事の核心にたどり着く、といった巡り合わせが間々起こっています。そういった体質、といえるのかも知れません。

ちなみに河合不死男が最期の帰省で帰ってきたとき、特攻出撃のことはもちろん一言も口にしませんでしたが、不死男の母親は一晩中、「行っちゃいかん、死んだら何にもならん」と引き止め続け、そして翌日家を後にするときは、一度も振り返らずに去って行ったそうです。(私の母親10才頃の談。その時は母の母、不死男の姉は結核で病死しておりました。)

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回天記念館において第一回天隊の記載が一切割愛されていた件

第一回天隊は沖縄に向け出撃し、皆戦死しましたが、第二回天隊は八丈島に進出して、そこで終戦となり全員生き残りました。

この隊の隊長は小灘様という、河合不死男とは兵学校同期の72期で、転勤命令で回天隊に配属になった方ですが、戦後は搭乗員戦友会である回天会の会長となりました。生き残った方達の長であり、また同期ということで、2000年頃、母から不死男の事実を聞き出し、いろいろ調べているうちに靖国神社で回天会のパンフレットを見つけ連絡をとったところ、HP制作の協力をしていただくことができるようになり、その後HPのアクセスは100万を超え、回天を題材とする漫画が連載され(『特攻の島』/2004年連載開始)、映画が制作され(小説『出口のない海』の映画化/2006年)、小説が出版され(『僕たちの戦争』⇒テレビドラマ化/2006年)、ネットでもフラッシュ動画が制作されて(『回天特別攻撃隊』⇒感動系ランキング1位/2003年頃)、ちょっとした回天ブームが起こりました。

ただ、小灘様にはお会いした当初から、何か取り繕っているといった違和感を感じ続けており、2006年に亡くなられてから、その周囲の人たちにも同様の違和感を感じるようになって、それで行動を起こし(これは先に述べた目に見えない力、波動に導かれるようにといった言い方が出来ると思います)、様々な経緯があって、かつて回天の訓練基地があった山口県周南市・大津島にある回天記念館を訪れ、そこでその館内の内壁(ここにいろいろと解説や資料がプリントアウトされています)、その中で「第一回天隊の記載、出撃写真等が一切割愛されている」、という事実を突きとめました。関係者が気付かないということは有り得ないことで、その頃は今のようにインターネットはなく、個人の情報発信は出来ない時代でしたから、何らかの意図があったとも推測します。

それでその事実に行き着いたのと同時に、何か封印がとれた、大きな力が自分に降りてきたような状態となり、都内での夜の散策での「口笛」とか、(これは近隣の皆様には不謹慎でご迷惑をおかけし本当に申し訳ないと思っております)、海の底に眠る不死男が歌う魂のような音色で、皇居、靖国神社、丸の内、国会議事堂といった都心中枢のビル群に響き渡らせられるようになったのです。ほんとうに、そうなったのはこの事実を見つけたのと同時です。

ですから、何かそういった不思議な力の中で動いているという感覚が自分には常にあり、今は日本は大変な時期で、少子高齢化問題、外国人受け入れ、様々な外圧、中国共産党の間接侵略等、早急に手をうたなければ国家が衰退、崩壊していく事態になると危惧していますが、こういう自分の立場から、何らかの役割を果たして行ける、力を与えていける、という強い自信があります。

元日生まれで縁起も良く、不死男という名にあやかった長寿というイメージとともに、日本の人々に、日本人としての誇り、またお守りとか、霊気とか、奇跡、そういった「イノベーション」を起こす感覚(脳の部位)を刺激していくことが出来るだろうと思っております。

このような自分の立場、立ち位置を理解していただいて、共に未来を切り開き、共に新しく仕事を創出していく方、仲間を探しております。

参画させていただく仕事の内容につきましては、向き不向き、出来る出来ない等の諸条件は出て参りますが、努力、勉強を重ねて信頼関係を構築し、しっかりとした形で回りだす環境となれば、何十倍、何百倍のお返しが出来る、お応えしていける自信があります。日本の未来を良くする、豊かにする、幸せを感じられる国、社会にする、そのために立ち上がる同士、企業、能力のある人たちのつながりを築いて行って、新しい価値観、仕事を創出し、日本を変え、そのノウハウをソフト、ハードとして海外に輸出し、国益につなげ、世界の和平にも貢献していく。

そういった循環の実現に向け、一歩でも近づけて行くことが、自分の生まれた使命だと思っております。


参考

回天関連年譜と個人史(今日までの流れ)


1962年、回天顕彰会設立。搭乗員のみによる親睦団体「回天会」発足。世話人・小灘利春。

      →1963年12月NHKドキュメントドラマ『魚住少尉命中』放映/脚本・横光晃
      →1964年6月誕生。(この年を前後して回天関係者の活動が開始、活発になる。)

1968年、回天記念館開館。発起人、回天顕彰会事務局・鳥巣建之助

1969年、回天記念館を徳山市(現周南市)に移管

1971年、横田寛『ああ回天特攻隊』

1983年、鳥巣建之助『特攻兵器「回天」と若人たち』

1986年、回天記念館の設備改善、展示室の拡張。

      →1990年HNK脚本コンクール佳作入選『小さな風船、小さな幸せ』(最終審査で横光晃氏が強く支持)

1991年、全国回天会発足。会長小灘利春

1995年、神津直次『人間魚雷回天』

1995〜1998年、回天記念館リニューアル(内壁の解説で第一回天隊の記載がすべて割愛された)。

(回天刊行会『回天』、鳥巣建之助『特攻兵器回天と若人たち』、横田寛『ああ回天特攻隊』、神津直次『人間魚雷回天』)

1999年3月、回天記念館収蔵目録発行(上記内壁の解説を出撃資料として掲載)。

       →1999年頃、母に問い合わせて人間魚雷で死んだ大叔父河合不死男のことをはじめて知る。

       →2000年、靖国神社遊秀館を訪れた際、パンフレットで全国回天会(生き残り搭乗員の戦友会)を知り、記載されていた事務局に問い合わせ、小灘会長と出会う。

       →小灘会長と河合不死男が海軍兵学校72の同期だとわかる。その縁もあり協力をいただいて回天HPの制作をはじめる。
       →初めてお会いした際、鳥巣建之助氏、仁科中尉、横光寛氏、河合強(遺族)を批判。何か取り繕っているという違和感を感じる。

2001年真珠湾攻撃60周年でイギリスのフリー写真ジャーナリスト、マーカス・パーキンス氏からの依頼(HPにメールで問い合わせがきた)で体験者を見つけ出し、取材。

       →2001年8月『魚住少尉命中』再放送。このとき脚本が横光晃氏であり、放映が自分が生まれる6ヶ月前であったことを知る。

同年夏、マーカス氏の取材が週刊文春グラビア、及び英国インディペンデント紙、チャーチ・タイムズ紙に掲載される。

       →これはその時のボランティア通訳、広島フィルムコミッション主事氏の関係者への約束を破った迷惑行為で実現。その後心身共に非常に大きなダメージを受け、その後心的外傷後ストレス障害となる。

2003〜4年頃、フラッシュ『回天特別攻撃隊』がネットで感動系フラッシュNo.1。総アクセスは100万回を超え、ブームとなり多くの人に知られる。

2004年、漫画『特攻の島』佐藤秀峰、連載開始。

2006年9月、TVドラマ『僕たちの戦争』(TBS)。出演:森山未來。

2006年9月、映画『出口のない海』。監督:佐々部清、出演:市川海老蔵。

2006年9月(下旬)小灘会長ご死去。

      →その後、関係者からも違和感を感じるようになるが、2001年の事件で肉体精神を病んで動くに動けず(踏み潰された虫が動くとはらわたが出るという感覚だった)、地の底を這うような生活を続ける。

2008年11月1日(土)、日本工業倶楽部・大ホールで『中田喜直と小灘利春を偲んで』のコンサート。(面識のない長女の小灘裕子さんから郵便振替が同封された招待状が届いた。)

2013年初頭、回天記念館の河合不死男遺影の写真交換を依頼(不似合いなものと感じていた為)。

2013年(平成25年)7月21日、周南市連続殺傷事件。(周南市連続殺人放火事件 周南市金峰・旧鹿野町)

       →この事件を知り、大津島、回天記念館を訪問しようと思い立つ。周南市へはこの訪問に際し、「目に見えない波動、力を感じる」とメールで再三伝える。そして連続殺傷事件に関しては、「毎日事件現場に花を手向ければ、必ず周南市ののどこかに新しい花が咲き出します」と伝えた。
       →同年10月回天記念館訪問。
       →同年12月ポテトマラソンにも参加。そして帰りのフェリー最終便の直前、少し時間があったのたで回天記念館に立ち寄ることにする。そしてその時、記念館内壁に表示・解説されていた各隊出撃資料、出撃写真で、第一回天隊のものが一切割愛されていることを発見する。

       →以後、封印がとれたような印象で大きな力を感じるようになる。
       →都内要所での夜の散策での口笛が、あたかも河合不死男の魂の歌声として響き渡らせることが出来るようになる。

       →その後、上記「回天記念館収蔵目録」で、第一回天隊の記載がすべて割愛されていることを確認。(この内容がそのまま回天記念館の内壁解説に使用されていた。)

2017年8月、終戦の日に前後してフィリピン海底に原爆運搬艦インディアナポリスを特定とアメリカが発表。
同、同艦を雷撃により撃沈させた回天多門隊の伊58潜を発見(戦後アメリカ軍が爆破した)と日本側が発表。

       →二つの事実を世界に発信したことは、アメリカがこれらの事実に対して封印を解いたと感じられる。

2018年、米中貿易戦争

2020年、中国武漢発・世界肺炎パンデミック


...明治維新に次ぐ「新たな維新」を東京発で